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2008年1月14日 (月)

恋文


恋文


 それはかすかな鉛筆のあとだった。夫に大掃除と命じられ、わたしは部屋のなかにうずたかく積まれた本の山を端から段ボール箱に放り込む作業をしていた。夫はその箱の表面をあらため、わたしが黒マジックで「売らない本」と書いているのを確認して、わたしを蹴った。わたしは苦笑して、新たに蔵書を「売る本」箱へ選別していった。
 それはふと手にした薄い新書だった。拾い読みをしてみたがまったく覚えがない。繰ったページのなかほどにかすかな鉛筆の跡。それは文字ではなく、あちらこちらの活字へのマークだった。わたしはそれをたどりたどり、数分かかってやっとその意味に気づいた。暗号というには拙いその線は、本の内容とは関係なく、わたしにだけ伝わるある言葉を示していた。あれはわたしがまだ幼い恋に夢中になっていたころ。本が縁でつながった男がいた。別れを告げたわたしに、男が投げつけた本。あのときには伝わらなかった言葉。
 ほっかむりをしてはたきをかけている、本を愛さない夫。けれどもわたしは夫を愛した。
 わたしは遠い日の恋を「売る本」箱に片づけた。男に伝えるべき言葉も、もういまのわたしにはない。


作者:たなかなつみ

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