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2017年11月

2017年11月 6日 (月)

【発表】「もうすぐオトナの超短編」松本楽志選

◆◆◆作品発表

 「もうすぐオトナの超短編」松本楽志選の結果を発表します。

 最優秀賞・優秀作品・佳作の本文は、後日、フリーペーパー「コトリの宮殿」に掲載します。フリーペーパーを手に入れにくいひとのためには、大きめの画像をブログに掲載いたしますので、いましばらくお待ちください。
  また、最優秀賞・優秀作品・佳作を収録した作品集を、2018年に電子書籍として出版予定です。そちらもご期待ください(作者の方々へは編集開始前にまたご相談申し上げます)。
 それでは作品の発表です。松本楽志による評も掲載しておりますので合わせてどうぞ。


☆最優秀作品
『彼女、トラック、遙か彼方の大河』   ZZ・倶舎那

◎優秀作品
『番外地』   海音寺ジョー
『CALL』   佐多椋

○佳作
『小鳥』   藤森 伏見
『色彩』   タキガワ
『クリームソーダ』   穂坂コウジ

※募集は兼題部門と自由題部門に分かれておりましたが、選は各部門を区別することなく行われています。御了承ください。


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『ライン』   葉原あきよ
> 「あ、ライン来たよ」

【評】天から降りてくる紐はいつでも異界へのあこがれをともないます。「蜘蛛の糸」で亡者たちが糸にむらがったのは、生への執着なのでしょうか。もしかしたら、ただ見知らぬ景色を見てみたいという本能だけが彼らを突き動かしたのかも知れませんよ。テーマが現代的で軽い口調で書かれていますが、各要素がおさまるところにおさまっていて非常によくできていると思います。

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○『小鳥』   藤森 伏見
> その小さな部屋の中には白い洋服を着た人形がいて。

【評】鳥籠のことをよく考えます。捕らわれた生き物はそこが世界の全てです。しかし、鳥籠には隙間があって、世界はどこかへゆるやかに繋がっている。鳥籠にはそんな不安定さを常に抱えているせいでしょう、超短編ではたびたびとても効果的に使われています。このお話の語り手はゆるやかに広がっている外側の世界にあって、その世界について何も描写はしません。捕らわれた生き物、いや、それすら危ういのですが、その生き物だけに捕らわれていて、これはどちらが内か外かわからなくなります。世界の終わらせ方も見事です。

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『雨の旅』   ZZ・倶舎那
> 旅に出るたびに雨がついてくる。

【評】異世界はひとつの場所に留まっている必要はありません。 私たちが人生の旅人であるという表現はもはや手垢にまみれすぎて、あえて口にすることは何か特別な覚悟が居るのではないかとおもいますが、だからといってその事実が消えてなくなったわけではなく、私たちはやはり旅人であったのです。そして、そういった視点人物の人生(時間や場所)によりそうような異世界がここには描かれている。近くにある、遠くにある。届きそうで届かないもどかしさの世界が、雨のもつ質的なあるいは視覚的な要素として、丁寧に取り出されている作品です。


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☆『彼女、トラック、遙か彼方の大河』   ZZ・倶舎那
> 助手席に置かれた等身大のスティッチのぬいぐるみ。彼女はそれを相棒と呼ぶ。

【評】日常のスケッチをラストの1行で異世界に接続することに成功した見事な作品です。ぬいぐるみは異世界そのものであるということを看破したところも素晴らしい。わたしたちがぬいぐるみを見る時、そこには、そのぬいぐるみが表出しているものを、逆再生としてあたまに取り出します。それは動物であるかも知れないし、人間であるかも知れないし、ロボットであるかも知れない。しかし、確かに何らかの主体を持つ存在であることが殆どです。そういったものが、虚空にただそれだけで存在することを想像するのはかえってって難しいでしょう。主体は、そこでたしかに息づいていることを、われわれは無条件に想像します。彼らが息づいているのは、彼方の大陸を流れる大河かもしれない、プリズムの光を乱反射する孤独な惑星かもしれない、無数の破れ障子に何重にも囲まれた四畳間かもしれません。それはたしかにトラックのなかに、かすかな消息として届いているのです。異世界を渡り歩くトラックを題材としたところも、効いています。

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『灯火ひとつ』   白縫いさや
> 六角形の閲覧室で本を読む。この図書館にはありとあらゆる書物が収蔵されている。

【評】書物が異世界の消息であることはこれはもう疑いようがありませんが、意外にも書物から消息を感じ取ろうとした作品はあまり多くありませんでした。もしかしたら、凡庸を怖れたのかも知れません。この作品はそこに果敢に挑戦し、成果を収めているように思います。猿の無限のタイピングが、いつかシェイクスピアに着弾するかのように、無限の物語はどこかで無限の世界を記述します。私たちが書物と向き合うことは、もしかしたら、無限の世界の一部を、偶然、ほんとうに偶然に、掠めることだったのかも知れません。

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『あの夜の私』   寺家莉冥
> 今宵は地元集落の祭事。毎年、お盆に催される夏祭り。

【評】先の作品への評で本について書いたように、祭がまつろわぬ者たちとの交信の場であることも、また疑いようがありません。そして、私たちが祭のことを思い出すとき、なぜか私たちは場所だけではなく、時間も同時に飛び越えていきます。時間も場所も異なる記憶はもはやこの世界と地続きであるかどうかも疑わしく、わたしたちはもうとっくに異世界のことを記述しているのです。じっさい、祭りのことを語るとき、私たちは言いようもない孤独感をどこかに感じるのではありませんか?

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『しゃぼん玉』   氷砂糖
> 甥にせがまれて洗剤を水で割る。

【評】しゃぼん玉は不安定な存在でありながら、明確に内と外を持ちます。これは鳥籠と良く似ていますね。しかし、鳥籠と決定的に違うのは、しゃぼん玉がその存在に破滅を内包して生まれ落ちるところです。最後の一センテンスが見事で、ここで語り手はしゃぼん玉が割れたあとの世界に「戻れなかった」と明言しています。世界は既に壊れて新しいものになっている。しゃぼん玉を描写していることが世界を描写していることと見事に響き合っている作品だと思います。

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『申く◇U王土ルL』   穂坂コウジ
> こんにちは。そう、そこのあなた。あなたの事です。

【評】おっと、ついにバレてしまいました。超短編がなんらかの物語である以上、超短編を読むことはすでに異世界を覗き込むことです。いや、バレてしまいましたというよりも、もうとっくにご存じだったことでしたね。でも、精緻に描写された異世界もあれば、ほとんどはりぼてにすぎない異世界もあります。この作品によって読み解かれる異世界は、記号的な漢字によってその端っこだけが記述されています。お見事です。そうでした、またうっかりしていましたが、はじめから超短編は端っこだけを食べることを得意とするジャンルなのでした。もう申く◇Uルされましたか?

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『あなたと出会った場所』   はやみかつとし
> ありとあらゆる行き違いを繰り返しながら、あなたとわたしはそのたびにどうしても出会ってしまう。

【評】ただ、「わたしたちが繰り返し衝突するのだ」ということだけを全力で伝えてくる力強い作品です。 わたしたちはよく鏡の世界を想像しますね。鏡の世界は「通信ではない」。そのとおりです。では、通信ではない私たちは何を交換しうるのでしょうか。それこそが物語として記述されているのです、限りなくゼロに近いけどゼロではないのです。異世界との交信というものはそういう形でしか起きえないのかも知れません。


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◎『番外地』   海音寺ジョー
> 重い、吐き出し窓を開けると便臭がする。

【評】お祭りの超短編がありました。猫の超短編がありました。死んだ恋人の超短編もあります。いずれも過去に向かって異世界の消息を辿るたびでした。しかし、異世界は未来にもあります。一寸先は闇、未来は渦巻く世界の中に無数の異世界を溶かし込んだ形で存在します。この作品全体に漂う、悪臭のようなものは、この未来を端的に表現した者と感じます。老人たちは未来の異世界からやってきて、その世界の言葉を17文字だけこの世界に伝えて、そのあとは沈黙してしまう存在なのです。

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『あらかじめ決められた恋人たちに』   空虹桜
> 彼女が、妻が、死んだ。

【評】小説の分類タグのひとつに「ループもの」というものがあります。ループのきっかけは様々です。何ら脈絡もなく特定の日々が繰り返される作品もあれば、恣意的に何か後悔した行為をくりかえし体験する作品もあります。たいていは、ループのなかでひとびとは行動を変え、世界を変えます。ループだからといって単に同じことを記述していては小説になりませんからね。しかし、記憶もまた小説と似ています。わたしたちは同じこと完全に同じまま頭に仕舞っておくことは出来ません。反芻するたびに少しだけ、わずかだけ形を変えて世界は繰り返されます。この作品もまた、過去という異世界との通信を描いた作品といえるます。

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『しっぽ』   五十嵐彪太
> 飼い猫の姿が見えない。たぶんクローゼットの中で丸まって寝ているんだろう。

【評】猫にはどこか時間を操る力でもあるんじゃないか、と思いませんか? このイメージはおそらくですが『夏への扉』のせいでしょうか。あの人間と明らかに異なる時間の流れをすごしている様子を見れば、自然とそのイメージが湧くのも納得できる気がしませんか。そして本作もまた、過去にある異世界が、現在に射影されてしまったかのような作品で、それを猫の尻尾で表現したところが秀逸です。


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『ドア』   胡乱舎猫支店
> 母さんが階段を上って来る。足音を忍ばせているけれどハンドクリームの匂いがする。

【評】これもまた猫をテーマにした超短編です。おまけにドア(=扉)ですから、これはもうどうやっても『夏への扉」を思い出さずには居られません。扉が文字通り異世界への扉になるというのも非常に腑に落ちる話です。猫は過去の世界の残滓をかすかにまとって(それがちゃんと匂いとして表現されています)現れます。そして、もちろん、このドアは開きません。異世界が魅力的なのは、それが完全なものとして立ち現れてこないからです。

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『森』   千百十一
> 生まれも育ちも歌舞伎町である。

【評】『カラスの教科書』はカラスの生態もさることながら、作者のカラス愛を感じ取ることが出来るよい科学読み物でしたが、それはさておき、これを超短編の作品の末尾に「参考文献」と加えたことこそがこの作品の特異性と面白さに繋がっています。この参考文献の一行は「この作品の、一人称の主体はカラスですよ」ということをただ説明したかっただけ、と読めてしまうのですが、実はこの一文の効果はそれだけではありません。この作品全体をものすごい力で現世界にむかってつなぎ止める、重い碇のような力がこの注釈にはあるのです。これがなくなると本文はふらふらと何処かここではない世界に向かって漂流していってしまう。これはとりもなおさず、さかさまに本文の異世界性を表しているといえるのではないでしょうか。

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『こっちの水』   元木一人
> 雨を飲むために寝転がっていたら、向こうでぴしゃぴしゃと魚の跳ねる音がした。

【評】歌舞伎町の次は四谷三丁目です。具体的な地名が、いま私たちがいる「こっちの世界」の輪郭を濃くします。輪郭が濃くなればなるほど、そこからはみだした、淡い、ただ気配だけの存在はかえって目立つようになります。俗物的な女への感情もまた、その淡さを強調しているかのようです。世界は輪郭の内側にあるのか、外側にあるのか。この作品はてのひら怪談のような趣がありますが、そういった淡い輪郭の得体の知れない者の揺曳が私たちの心を少しだけ不安にさせるのかも知れません。


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◎『CALL』   佐多椋
> 一ヶ月ほど前のことだ。

【評】語り手は自らの存在について「社会的な存在意義を匂わせつつも、社会的であるとはけっして明示しないことで、社会的以上にもっと本質的なところで存在意義を脅かさている者」として記述されます。語り手の物理的存在の消滅という拡大解釈は、そのままこの世界の破壊と結びつきます。作中で語り手が向き合っている「スクリプト」は、実行されることで、コンピュータメモリ上に小さな異世界を構築し、そこで作り手の望む何かを生成する存在として規定されています。語り手はその別の世界を壊すことで、語り手の居る外の世界がゆるやかに崩壊することを防ごうとしてます。しかし、外の世界もまたすでに変容していました。語り手が社会的な拠り所としている組織体それ自体ををあらわす蛍光色、その色によって染められた世界にです。もしかしたら、語り手が自らの消滅を確信した時点で既に世界は変容していたのかも知れません。なかなかに面白い構図だと思います。

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○『色彩』   タキガワ
> ジョリィは嘘ばかり吐く少女だった。

【評】ここにもまた旅人が描かれています。面白いのは、この旅人は異世界の消息を伝える者ではなく、ジョリィが作り出す異世界を破壊する主体であることです。この華麗なる逆転は、作中ではさほど大袈裟には語られませんが、とても面白いと思います。ジョリィが時計台に住んでいるというところも見逃してはいけないでしょう。時計台は時間の象徴です。他の作品でも書かれていたように、過去もまた異世界でありますが、未来は旅人によって破壊されてしまい、最後の一行からこの物語自体をひとつの過去としてかろうじて締めくくることしかジョリィには出来なくなっています。

○『クリームソーダ』   穂坂コウジ
> アシカの檻の前にいた。

【評】確か、だいぶまえに鳥かごの話をしましたね。動物園の檻もまた同じことです。ただ、動物園が人工的に動物たちの生活環境を作っていることは、檻ごとに異世界が創造され、動物とともに陳列されていることは看過できません。本来ならば檻によって隔てられた二つの世界は実は、目に見える折という境界線ではなく、もっと別の次元にひかれた分水嶺によって隔てられているのだということに気づいてしまうと、ちょっと怖い気がします。

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『夏の博物館』   海音寺ジョー
> たきさんと京都国立博物館に「博物館のおさかな展」を観に行く。

【評】芸術品がどこかゆがめられた異世界への入り口であるならば、博物館というのは入り口をコレクションしている場所ともいえます。しかし、特別展示はまだいいのです。見ている側にも覚悟がある。実際、この語り手はたきさんの様子を描写する余裕があります。そのディテールがむしろ「こちら側」を強く意識させます。いっぽうで、最後の一行にある「常設展」は恐ろしい存在です。「常」という名前に油断してまるでそこが日常の延長戦であるような気持ちで世界に接してしまうと、思わぬところからあちら側へ転落します。ほら、この作品も最後になって「仏像を観た」と、慌てて世界を閉じてしまった。たきさんのとの他愛のない会話に代表される日常性は完全に失われて二度と戻っては来ません。

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『告白』   はやみかつとし
> この厚い岩盤の天井を穿ち、孔を開けたのがあなたの涙だったとしたら、

【評】わたしがあなたでありあなたがわたしであるという物語の原型をあてはめるのであれば、この作品は異世界から穿たれた穴は、じつはこちらがわであって、なんの消息も伝えてきてはいないということになります。一条の光、というのはほとんどのばあい、希望の象徴ですが、もしかしたら、語り手はその欺瞞にうすうす気が付いていたのではないでしょうか? 

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『痛みを育てる』   たなかなつみ
> 痛みは遠いところからやってきて、やがて内奥で巣を作る。

【評】痛みはどこからやってくるのでしょう。語り手は、中に巣くってしまった痛みに気を取られ、痛みの生まれ故郷である世界のことを考えることを放棄しています。わたしたちの内部と外部を分けるのは、内部に痛みがあって外に痛みはないからで、その境界線があって初めてわたしたちはいるんだ、という一応の説明はつきます。しかし、よくよく思い返してみると「痛みは遠いところからやって」きているのです。では、こことあちらの境界をどう定めればいいのでしょうか。これは厄介な話です。

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