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2018年7月

2018年7月23日 (月)

【発表】「もうすぐオトナの超短編」はやみかつとし選(兼題:日常)

■■■超短編20周年記念企画「もうすぐオトナの超短編」はやみかつとし選結果発表

■■総評

 兼題は「日常」でした。「日常」という言葉には、「ありふれていること」「くり返すこと」といったニュアンスが感じられます。超短篇という、限られた文字数をフルに活用し、書かれたことの外縁や書かれていないことを指し示すことで文字数を超えた表現を目指すジャンルにとって、これは今まで積極的に攻めにくい領域だったかと思っています。一方で、すべての物語は普通の日常をもつすべての人に読まれるべく開かれているわけですから、理屈さえつければすべての超短篇は「日常」と接点をもつ、と言い切ることも可能だったはずです。(募集要項はこれもアリという趣旨でした)
 にもかかわらず、多くの作者の方が敢えて「ありふれていること」「くり返すこと」という側面に正面から向き合い、新しい主題、新しい表現を探ってくださったこと(と、私には思えました)、それはすなわち、超短篇の新しい可能性がここに見られるということにほかなりません。そのことを十分に受け止め、できるだけ真摯な選をさせていただく所存です。


■■選考結果

 選は兼題・自由題あわせて行いました。

■最優秀作品
 「今宵は満月」 松岡永子 (自由題部門)

■優秀作品
 「四階角部屋3LDK」 胡乱舎猫支店 (兼題部門)
 「小さな神様」  春名トモコ (兼題部門)
 「アイ・ノウ」 穂坂コウジ (自由題部門)

■佳作
 「Nowhere Man」 穂坂コウジ (兼題部門)
 「綺麗な考え方を」 空虹桜 (兼題部門)
 「エレベーターの恋」 穂坂コウジ (自由題部門)


■■作品へのコメント

■兼題部門

【佳作】 Nowhere Man   穂坂コウジ
> 「何処へ行っても、此処なんだ」

砂の民の語る日常。その砂の民を迎え送り、思いを馳せるのもまた語り手の日常なのでしょう。タイトルはビートルズの有名な曲から取られているので、その歌詞のフレーズを重ねて読むのも面白いと思います。
なお、60文字前後という長さは超短篇のなかでもとりわけラディカルに短い部類で、そのぶん表現効果への先鋭的な意識が問われます。あえて欲を言えば、「明日」という言葉の繰り返しを削って補助線を増やすことで、イメージをもっと遠くへ投擲できるかもしれません。

FOOL’S GOLD   穂坂コウジ
> 高い高いタワーから、一枚のコインが落ちる。

ゴミ山の物色を生業とするスラムの少女の毎日。そこにあるとき、きらきらと輝くコインが落ちてくるのですが、この何気ない事件を描写する筆致に、少女の日常をどこか遠く離れた場所から眺める、醒めた視線を感じます。タイトルもまた、そのことを強調しているようです(黄鉄鉱に代表される、金のように見える安価な鉱物のことだそうです)。どこに作品の視点を据えるかは微妙な問題ですが、個人的には更に少女の視線の高さまで降りていくことで表現できたものがあるように思いました。おそらく、格差という残酷な現実を、あえて無慈悲なままストレートに描写することを作者が選んだものと理解しましたが、一方そうした社会問題への視点が、作品の読みの可能性を限定してしまうことも往々にしてあります。これは超短篇の表現領域の拡大にまつわる一つの大きなテーマかと思いますが、その難しさに挑んだ意欲的な作品だと受け止めました。

わらしべ長者   といじま
> キーホルダーを拾った。

敏腕芸能マネージャーの半生記。超短篇において、こうした評伝的な語りは尺に収まり切らず中途半端になりがちですが、この作品は余分な修飾を潔く切り捨てたドライでテンポの良い語り口により、珍しく成功していると思います。ただ、タイトルと結びの部分、いかがでしょうか。確かにわらしべ長者のような物語ではあるのですが、そこに集約させることで、逆に物語を小さくしてしまっているように思えます。

引っ越し後の混乱期   海音寺ジョー
> 上北台に先月引越し、やっと部屋が片付いてきた。

上北台や芝中団地といった具体的な地名が登場するのは超短篇としては珍しく、またそれらは近隣の環境や部屋の状況の描写にリアリティを付加する効果を上げているようです。ただ、作品として成立しているかというと難しいところで、身辺雑記、それも自分自身のみに向けたものにとどまっています。それはおそらく、引っ越してきた部屋の現状について、感想を述べていたり、「?」や「!」の使用によって表現に感情を付加しているためだと思われます。不思議に思われるかもしれませんが、むしろ感情を排して徹底的な客観描写に徹したほうが、描写された対象の生の手触りが読者に伝わるようです。これもまた、短い文芸特有の「解釈を読者に思い切って委ねる」という方法論にかかわる一つの側面かもしれません。

【優秀作品】 四階角部屋3LDK   胡乱舎猫支店
> 「代わりに書いてくれない?」

淡々と描かれる鬱屈した日常、と思いきや普通ではないことが起こっている。そしてそれをも淡々と同じ筆致で描き切る。安部公房の短篇を思わせるシュールで不穏な雰囲気に惹かれました。後半の記述から振り返ると、前半で彼の母親に「根を張られてしまっ」たという表現も、もしや比喩ではなく本当に根を生やしていたのではと思わされます。無機質なタイトルも本文によく合っています。

【佳作】 綺麗な考え方を   空虹桜
> わたしはバカなので、誰かの言ったことを理解するのに時間がかかるし、

「わたしはバカなので」のリフレインを息苦しくなるほどたたみかける硬派な作品。しかし繰り返し読むと、語り手自身が自分をほんとうに「バカ」だと思っているわけではないらしいことが伝わってきます。おそらく、周囲の誰か彼かが「わたし」を「バカ」だと言うので、それに合わせてそういう言い方をしている、つまり「わたしは皆のいうバカだろうから」という意味ではないか、と思えてくるのです。そうなると、初読のときからどことなく他人事とは思えない気がしていたこれらの言葉が、読者である私自身のものでもあるという確信が深まってきます。そう、だから「生きなければならない」のです。

さほど冴えない女の子   空虹桜
> 寝顔を盗撮した。軽くよだれ垂れてる寝顔。

寝顔の彼が彼氏なのか、見ず知らずの好みの顔の男の子なのか、どちらにしてもうまく嵌まらない感じなのが残念です。かわいいエピソードだけに、もう少し文字数を使ってふくらませても良かったかもしれません。

希望   空虹桜
> 500文字に10000文字分の感情を。

これを「日常」といっていいのか、いや作品といっていいのかすら、悩ましいところです。あえて「作品らしくない」文体や表現を選んだのだとは思いますが、「500文字に…」のリフレインも、超短篇を書く者としての矜持や悩みも、楽屋ネタ以上のインパクトを持ち得ていないと思います。途中、「〜したい」という言い回しを中心に単語をたたみかける部分のリズムと推進力が素晴らしいだけに、惜しまれます。

【優秀作品】 小さな神様    春名トモコ
> 家に遊びに行くと姉は必ず紅茶を淹れてくれる。

ちょっと不思議な、ほんわかとした、神様のいる日常。超短篇の得意とする方向性ですが、かといって誰にでも書けるといったものではありません。丁寧な筆致と、慎重に選ばれたエピソードが、確かにこんな日常を過ごす部屋がこの世界のどこかにはあるかもしれない、と確信させてくれます。
蛇足的補足ですが、「日常」というのはイコール「リアリズム」ではありません。リアルの中にも「日常」と「非日常」があり、非現実の世界にも同じように「日常」と「非日常」がありえます。幻想や空想と相性のいい超短篇で日常をテーマとするのであれば、この作品こそがまさに王道と言えるかもしれません。

きく、きいて、ききたくない   佐多椋
> 昔からそうだった。

思わせぶりな言葉を過剰に気にしてしまう「ぼく」と、そこから起こるすれ違い。ことの起こりから結末までを丹念に記述しているのですが、そのことで逆に話が観念的なレベルに終始してしまった感があります。むしろ、「彼女」と「ぼく」の会話部分を充実させて具体性をもたせ、地の文の説明は大胆に切り詰めるという方法もありかもしれません。

■自由題部門

【佳作】 エレベーターの恋   穂坂コウジ
> 「バイバイ、またね」そういって、

短く洒脱なお話には惹かれます。この物語は、タイトルが謎解きの答えのような位置にありますが、タイトル抜きにしても不思議な浮遊感のあるお話として完成しています。タイトルと本文の理想的な関係の一例でしょう。

【優秀作品】 アイ・ノウ   穂坂コウジ
> 雨は、だれでも知っている。

では、「アメニアラズ」とは何なのでしょうか。作者は説明しません。ただ、雨という現象と背中合わせのように、必ずそこにひっそりと息づいている何かには違いありません。誰にも気付かれず踊るそれはまるで、遠き日のアステアの幻燈のようでもあります。

あまりリス   海音寺ジョー
> 人類が核で滅び、荒廃した地上に再び生物環が形成された。

そして繁栄したリスの社会の一コマ。人類でもリスでも変わらぬありふれた場面に、リスならではのディテールが差し込まれているのが楽しいです。個人的には、最終段落で描かれる終末後の日没の禍々しい美しさに惹かれたので、バランス的には導入部をもう少し切り詰めて、最終段落をよりずっしり感じたいと思いました。

【最優秀作品】 今宵は満月   松岡永子
> 村ではいつも、月は大きくなる前に狩られた。

そのまま文字どおり受け止めただけでも十分に豊かで魅力的な物語ですが、何度か読み返すうちにこれはミソジニー(女性嫌悪)を逃れて生き延びる一人の女の子の話だと思うようになりました。月(それは一面、女性性の象徴でしょう)が大きくなって手に負えなくなる前に狩る男たち。そのうち何故か痩せ細って減って行く無数の月。そしてわたしと、わたしの月との逃避行。現実のアナロジーを匂わせながら、豊かな表現でむしろ現実そのものよりも身に迫る心情を伝えてきます。先に述べた「社会問題への意識と超短篇」というテーマには、こうした解もあるのだ、と嬉しくまた勇気づけられる作品。謹んで最優秀作品に選ばせていただきました。 

2018年7月 3日 (火)

【発表】「もうすぐオトナの超短編」峯岸可弥選(兼題:暴力)

■■超短編20周年記念企画「もうすぐオトナの超短編」峯岸可弥選結果発表

■兼題部門「暴力」

【優秀賞】
パーマネントのばら 西原理恵子 (投稿作品ではありません)

【佳作】
ホームルーム   胡乱舎猫支店

【次点】
花の檻   穂坂コウジ

【並選】
すてきな二人   氷砂糖
消しゴム   千百十一
クラシフィケーション   たなかなつみ
プラスチック製短下肢装具   海音寺ジョー
公園の墓場   元木一人
骨を埋める   葉原あきよ

■自由題部門

優秀賞該当作品なし


くわしい選者評は以下をご覧ください。

■■選者評

 多少は予想していたのですが、戦争・テロ・虐殺・傷害・破壊・犯罪などといった直截的な暴力が扱われていなかったり、扱われていてもその程度は比較的軽いものが多かったと思います。その代わりに構造的暴力*1や文化的暴力*2に重点が置かれているものが多かった印象を受けました。各々が選者の好みを忖度したか、あるいは他の投稿者の多くがそういう作品を送るだろうという推測からくる戦略か。いずれにせよその点に関しては少しだけ残念でした。投稿してくださった方々が暴力の多様さを求めるあまり、却ってその多様さが損なわれてしまったとしたら皮肉です。
 暴力的な物語の例として個人的には新美南吉『てぶくろを買いに』を挙げることがあり、そのことがタカスギさんから事前にアナウンスされていたのも一因なのかも知れません。この『てぶくろを買いに』の暴力性については、佐多椋くんの『超短編を読む、書く。 -process #2』*3で受けたインタビューに関連する箇所がありますので、興味のある方はこちらも手にとって貰えればと。


*1 通常の暴力(直接的暴力/行為者暴力)とは違い、社会制度や社会構造などに根差しており本来的な加害者(行為主体)が特定され難い種類の暴力。貧困、差別、抑圧、不平等など。

*2 暴力を容認する意識や思想、あるいは暴力に関する無理解や無関心など。直接的暴力や構造的暴力の正当化・合法化の土台となる。

*3 http://p.booklog.jp/book/122249/


■兼題部門優秀賞
□パーマネントのばら 西原理恵子

 投稿作の選考をしている最中たまたま読んだ作品。好みの種類の暴力が色濃く描かれていたので、(もちろん投稿作ではありませんが)これを優秀賞に推したいと思います。


■兼題部門佳作
□ホームルーム   胡乱舎猫支店

 子供の「子供である」という属性そのものが、広義の暴力とが分かちがたく結びついていると思います。社会や大人から保護されなければならない存在であるということは、(保護されることで一部の自由や権利が守られる反面)社会的な規範などによって一部の自由や権利が奪われていることと併発しています。知識や精神や身体が発達していないという自身の能力の低さ、行動範囲や人間関係の狭さ、経済力のなさなど多くの不自由が暴力として立ちはだかっているのです。
 子供の為に必要不可欠な規制(パタナリズム)も、その子供にとっては暴力として機能することもあります。またパタナリズムに見せかけた、単に不合理なだけの暴力も存在しているでしょう。 

 この作品では羽や鰓のある子どもたちに対する教師(?)のやりとりという童話のような語り口で、大人の不合理さやコミュニケーションの断絶などが描かれており、どこか禍々しい。
 夜中に子供たちだけで海や空へ行かねばならない目的は不明ですが、単なる遠足などではなさそうです。子供たちにとって理不尽な目的地が指定され、うっすら不穏な空気が漂っている。文字通り「子供だまし」でもって子供には楽しい遠足だと思わせようとする大人たちの胡散臭さが際立っています。


■兼題部門次点
□花の檻   穂坂コウジ

 警察など、実力行使を伴う公的な権力は「暴力装置」とも呼ばれます。刑務所とは自由刑として犯罪を犯した人間の自由を著しく奪う暴力装置の一つと言えます。
 また内心の自由は民主主義の基本的な条件の一つであり、基本的人権の大きな柱です。日本国憲法においても「思想・良心の自由」として保障されています。思想そのものの弾圧は特に大きな暴力と言えるでしょう。

 作中、直截的な暴力を扱う描写はありません。ただ、色とりどりの花で飾られた綺麗な部屋で歌のレッスンを受けるだけです。異化効果が利いています。
 歌が上達すれば上達するほどにこうした制度に取り込まれ、本質的な意味での「自由」が堅固に縛り上げられてしまってゆくようです。

■兼題部門並選
□すてきな二人   氷砂糖

「水男とアリスはとても仲の良いカップルです」と繰り返されますが、作品全体には共依存によるIPV(ないしDV)が描かれており不穏です。
 一見鷹揚に見える水男とアリスとでは暴力における力関係が歴然として存在し、アリスは何をしても水男に肉体的な被害を与えられない一方で、水男が少しアリスを抱きしめただけでアリスを溺死させてしまうことも出来ます。「仲の良いカップルです」と繰り返されるたびに、関係性の不均衡が際立つ。

 相手に苦痛を与えなければその相手を抱きしめることが出来ないという水男の身体性は、水男自身にとって必ずしも幸せとは言えないかも知れません――彼自身がそれを自覚しているかどうかは別として。


□消しゴム   千百十一

 親が子から受ける「子どもという暴力」が、親が子へ与える「親という暴力」へ再生産される様を描いていると読みました。
 子供が大人による暴力を受けやすいのは勿論ですが親にとっても我が子の存在そのものが広義の暴力として機能されることがあり、そうした暴力は可視化されにくい分だけ問題が根深い。自らの苦しみを訴えたところで周囲からは「単なる甘え」という風に叩かれ、却って自らの人格や親としての資質を貶められるだけだという不安に出口をふさがれてしまえば、本来は最も愛すべき我が子への暴力に逃げ道を求めてしまうことがあるのかも知れません。

 親子に限らず家族という関係は、他より関係が深い分その暴力性もまた濃密になることがあります。
 例えば殺人事件自体の認知件数・発生率は社会が豊かになるにつれ減少していますが、家族間の殺人事件の発生率はほぼ横ばいであり、相対的にはその割合が増大している傾向にあると言えます。家族ことに親子という関係は時代に左右されにくい普遍的な問題を孕んでいるのでしょう。

□クラシフィケーション   たなかなつみ  

「暴力」には「自由を制限されること」が含まれます。ほぼイコールと言って良いかも知れません。
 恋愛や宗教は本来的には人を幸せに導くものですが、人を不幸に突き落す暴力性を孕んでもいます。この作品の語り手のように愛している対象に(半ば自ら)縛られている状態からはなかなか抜け出せないものなのでしょうか。


□プラスチック製短下肢装具   海音寺ジョー

 暴力の概念を最広義に解釈すれば、四肢の障害や「老い」という逃れられない身体的な変化や機能低下もまた暴力の一種として捉えることができるでしょうし、それらに伴う状況や環境の変化などもまた暴力として機能する場合がある。
 ただ作品としては自己の身体性による暴力を描くというより、逆に老いや障害と上手く折り合いをつけることで寧ろそれらが暴力とはならないということが描かれているように読みました。その意味からは、寧ろ今回の募集テーマとは逆行してしまったかと。

 以下、蛇足です。
 刑務所等は「暴力装置」であると書きました。作中では雑居房よりも独居房の方がましという風に書かれており一般にもそう考える向きも多いのですが、実際には独居房の方が雑居房以上に辛い場合があります。一日中他人と接することのない収監方法は「昼夜間独居」あるいは「昼夜単独室処遇」と呼ばれます。この「昼夜間独居」は受刑者の精神的な苦痛が強く、「拘禁反応」(長期間に及ぶ自由を拘束された状態が続くことで起こると精神障害)も出やすい。
 とはいえ刑務官からすると囚人を独居させた方が管理が楽なので(喧嘩などのトラブルが起きる可能性がない)、独居させたがる傾向があると言います。こうした収監方法をはじめ刑務官の囚人に対する振る舞い、代用監獄、入国監理局による収容施設への長期収容、精神障害者の強制的な長期入院などには国連拷問禁止委員会や国連人権理事会などを筆頭に国際的な批判が集まっている現状があります。


□公園の墓場   元木一人

 子供という属性そのものが暴力の被害と分かちがたく結びついていると言いましたが、子供は知識・経験・注意力・想像力の欠如や無邪気さから暴力行為の主体となる場面も少なくありません。その暴力は意識的でも無意識にでもどちらもあり得るでしょう。

 全投稿作の中で最も長かった作品。文字数は500文字以内ではあるのですが、もっと長いサイズで描かれるべきという印象を受けました。
 正直、しっかりと作品内容を読み取れなかったので評をするのが難しい。単なる「思わせぶり」と「外に物語が広がっている」ということの境界が何なのかを説明するのは難しいですが、この作品では若干前者に寄っている気がしました。


□骨を埋める   葉原あきよ  

 自分の出生が父親に望まれていなかったこと(ないし、そう思われてしまうこと)も含めて、特定の家族形態に社会の片親に対する無理解などは確かに暴力の一種と言えますし、またこの母親にとって自らの娘に嘘をつき続けなければならなかった心の有り様にもまた暴力が介在していると見做すことはできる。ですが、この作品もそうした暴力よりも「暴力からの恢復・再生」に重きが置かれていると思います。その点では今回の募集したテーマからすると推しにくい。
 加えて何となく「手癖」のみで書かれている印象もあり、今回もし逆選を付けるのであればこの作品に。

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